運命の糸
/☆Go Back☆/

「あのね、すきなこができたの」

清汰の不意の言葉に、反応に戸惑ってしまった。ルームミラー越しに、清汰のくりくりとした目と視線はぶつかる。私は少し強張った眉間を緩めてから、意識して唇の端を引き上げてみせた。

「いいわね。その子のどんなところが好きなの?」

「まりんちゃんはね、うたがとってもじょうずなの!このまえのはっぴょうかいのときはせんせいにいっぱいほめられてたし、あとはね….」

私は相槌を打ちながら、ミラーから焦点を外し、フロントガラスの先の信号へと視線を滑らせる。前の車までは、このまま右折ができるだろう。 仕事終わりに車で清汰を迎えにいく生活にも、すっかり馴染んでいた。

三年。あの日から今日に至るまで、私はただ清汰との生活を維持するだけで精一杯だった。ずっと夫に頼りきりだった私が、未亡人としてひとりでこの子を育てていくには、必死に自分を鼓舞し続けるしかなかった。私は強い人間ではないから。 物心ついたときから、常に劣等感の塊で、都合の悪いことがあればすぐに嘘をついて自分を大きく見せようとしてしまう。そんな一人ではどうしようもないほどの膨れ上がった歪みを、ありのままに認めてくれたのが夫だった。本当はいまだに彼に頼っていたいほど弱い。それでも、私の手で守り抜かなければならない存在があるから、私は強がっていなければいけない。そのことは、自分でもよくわかっていた。

「ままはさ、ぱぱとどうやってであったの?」

唐突に清汰がそう口にした。逃げるように視線を歩行者信号に移す。赤から青へ変わる気配はない。 覚えていないはずがない。言葉や過ごした時の記憶は、今でも昨日のことのように鮮明に思い出せるし、これまでだって友達に聞かれるたび、そつなく答えてきたこと。それなのに、清汰の無垢な瞳を向けられると、言い訳を探す少女のように言葉に詰まってしまう。

あのときのやりとりは、ずっとあったはずの記憶なのに、はじめて覚える心苦しさが蘇る。体験したことがないというのに、私はそれを思い出した。少しづつ手で押し沈めていたものが、一気に浮き上がってきたかのような感覚だった。

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「……なんか、どうしても嫌なの」

「何が?」

「人に聞かれて、そのまま答えるのが。別に悪いことじゃないのは分かってる。でも……あまりにもあっけないっていうか、ただの確率の問題みたいじゃない」

「確率って」

「たまたまあのタイミングで、たまたまそこにいたのが私だっただけ。誰かに説明するたびに、『ああ、そういうパターンのやつね』って、私たちの関係がどこにでもある記号みたいに流されるのが耐えられないの。私じゃなくてもよかったんじゃないかって思えちゃう」

苛立ちと焦りを混ぜてそう吐き出すと、彼は少しだけ困ったように息を吐き出した。それから、いたずらを思いついた少年のような表情を浮かべながら、私に対してそう確かに口にする。

「じゃあさ、俺らで馴れ初めを書こうよ」

その発言に呆気に取られて、思わず乾いた笑みを漏らしたあとに、「どういうこと?」と彼の真意を尋ねようとする。

「君がそう思うなら、俺ら2人だけで、出会った頃の物語を作ればいいんじゃないの」

さも当たり前のことだろうと言わんばかりの目線を私へ投げかけてくる。悪意を全く感じない。彼はどうやら本気なのだろう。 その真っ直ぐな目が、私にとっては眩しくて羨ましい。たとえどんなに私がうまく隠れたとしても、彼は必ず見つけてくれる。 彼の善良で、突拍子もない提案に、私は心を預けたくなった。

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プッ、と短く鳴った後続車のクラクションで、私は弾かれたように顔を上げた。 いつの間にか、目の前の信号は青に変わっている。前を走っていた車はもう右折していなくなっていた。 慌ててアクセルを静かに踏み込むと、後部座席から「まま?」と不思議そうな声が聞こえた。

「ごめんごめん、青になってたね」

私はもう一度、ミラー越しに清汰のくりくりとした目と視線を合わせる。 車内に閉じ込められた、少し冷たい空気を肺に送り込む。その目線を今度は逸らさないようにして、私は口を開いた。

「ぱぱとはね、この町のボランティアに参加した時に知り合ったの。はじめて会った時から素敵な人だなって思ってたんだけど、あんまり話す機会がなくてね。でも、ままはぱぱに運命のようなものを感じていたから、きっとまた逢えるような気がして」

清汰は依然として私の瞳に照準を合わせたまま、小刻みに顔を上下に揺らしている。

「それでね、それからちょうど一年ぐらい経った六月に、ままがその時住んでた家の最寄駅から帰ろうとしてたの。自転車置き場で自転車を出そうとしたらね、隣の自転車とハンドルが絡まっちゃって。無理に取り出そうとしたら、他の自転車と一緒にドミノ倒しみたいにガシャーンって倒しちゃったの。」

私は無意識にハンドルの握りを直し、何度も口にしてきたその物語を滑らかに続ける。

「『あーあ』って長いため息をついてたら、ちょうど近くに男の人が通りかかって、一緒に起こすのを手伝ってくれて。そのとき、なんか前にもこの人と話したことがあるような気がして顔を見上げたら……ぱぱだったの。それに気づいて、二人で笑っちゃってね。それからは時々会って話すようになって、そんな関係が半年続いてから、付き合い始めたんだよ」

薄明かりに包まれた住宅街の中に、私たちの家が見えてきた。ルームミラーを見ると、二つの無垢な光は先ほどよりも視線を落としている。 私は話しながら、自分の鼓動がだんだんと静かになっていくのを感じていた。そのリズムは、静寂を得てからのほうがひどくうるさく聞こえる。 車内には、タイヤがアスファルトを擦るくぐもった音だけが響いていた。清汰は、ドラマチックな恋物語の結末に感嘆するでもなく、ただ何かを探るようにじっと黙り込んでいる。

「ままは、今楽しい?」

その唐突な問いに、私は拍子抜けしてしまった。さっきみたいな笑顔をもう一度顔に貼り付けて、できる限り明るい声を絞り出す。

「楽しいよ。清汰がいるからね」

「でも、ぱぱはままにとって、うんめいのひとだったんでしょ?」

「そうだよ」

反射的にそう返し、駐車のためにギアをリバースに入れる。ミラーを見ると、清汰はこれまでの話にはもうすっかり興味をなくしたように、車を降りる準備を始めていた。 荷物を下ろし、チャイルドシートのベルトを外してやる。 手を繋いで玄関の前まで歩いていくと、日はすっかり落ちていて、もう鍵穴は見えなくなっていた。 ノブを捻り、重たい扉を押し開くと、清汰は靴を脱ぎ捨てるようにして真っ直ぐリビングのソファへ向かっていった。私は薄暗い玄関でしゃがみ込み、靴の踵に手をかけながら、さっきの言葉を反芻する。

『でも、ぱぱはままにとって、うんめいのひとだったんでしょ?』

運命、か。私たちが口裏を合わせて作ったあれは、果たして運命の物語だったのだろうか。いや、そもそも奇跡のような出会いなんて、この世界のどこかに本当に存在するのだろうか。 人にあの「馴れ初め」を語るたび、私自身が深く黒い嘘で塗り固められていくような息苦しい感覚があった。その心の淀みは、私の底にある劣等感をただ刺激し続けていただけなのだと、今ならわかる。

今日、また一人、この嘘を聞かせる相手を増やしてしまった。その事実に意識が向き、鉛のように気が重くなる。 それでも。その嘘の陰にひっそりと隠されている、誰にも読まれることのない「二人で物語を作った」という呆気ない真実だけが、今も彼と私を繋ぎ止める唯一の糸のように思えて——私はどこかで、ひどく安心してしまうのだ。