昔から、自分で課したことを守るのが苦手だった。 今日までに課題を終わらせるだとか明日からは毎日筋トレをするだとか。 思い立ってすぐの間は効力があって、空想を浮かべる間に高まった熱量が私を突き動かすけれど、次第に責任感を正しく感じることができなくなる。脆い設計図をいたずらに描くことを繰り返して、そうして「また自分で決めたことを守れなかった」と自覚しては自分を責める。 自己嫌悪にすら嫌気がさしてからは、自分の未来にまつわる発言・独り言に「絶対」「毎日」という文言を入れるのをやめるようになった。 「気が向いたらやればいいか」という投げやりにも思える意志しか、私は示さなくなっていた。たとえ自分との約束事であっても強い拘束力を持っていたから、気軽に未来の自分と約束事を結ぶのをよしとしていなかった。 こういう自分の気質は自己に対してのみ完結するものではなかった。つまりこのことは独り言に限らず、それは他者との会話においても同じように現れていた。
中学生に上がってからだろうか。友達と言葉を交わすたびに、私は、使える言葉が減っていく感覚があった。それはおそらく、言葉のネガティブな側面だけを見ていたからなのだろう。誰かの愚痴が会話で聞こえると、身構えてしまう。 「この人は他の場所でも誰かにこんなことを言ってるのかな。」 昔はそんなことばかりを気にしていて、知覚するたびに「会話ってしんどいな」という煩わしさだけが心に溜まっていくようになって、口数が減ってしまっていた。 最近では昔よりも加点方式で物事を考えるようになって、それに伴って、言葉を交わすたびに言えることが増えていく感覚がある。 「どこかで愚痴を言っていないかな」という暗いフィードバックよりも、「この人は私にこういう話題を持ちかけてくれるんだ」という明るいフィードバックの方が会話で得られることが多くなった。
私たちの普段の会話においてはいちいち議事録をとっているわけではないから、その場で明確に約束事がなされるわけではない。それでも、「この人は私に心を打ち明けてくれているんだな」という感覚は、会話の中で互いが互いのコアを曝け出したという結果に基づいている感覚で、その吐露とは言い換えれば約束事を積み上げるという過程だろう。 日頃からコアを剥き出しに人と接することはなかなか勇気がいるし強要することでもないから、今は日記にしか存在しない話が多い。
メッセージでのやり取りはいつでもさかのぼれる。 「昔こう言ったよね?」という言葉が他者からの攻撃的な形で聞こえるようになって、私はLINEもほとんど触らなくなった。コアな部分をテキストとして打ち込むのにも躊躇って、それでも当たり障りない会話だけを親密な人と交わしていたくなかったから、やっぱり日記に頼るしか術がなかった。 自分自身の本音を素直に表現できる日記の中でさえも、自分を勇気づけるために言葉を選ぼうとしていたから、自己嫌悪を招かないようにと自分と約束事を交わすこともなくなってしまったけど。
だから電波に乗せて言葉を保存するなんて行為は、今までの自分を顧みたらあり得ない選択肢だと思う。それでも、出来る限り拘束力のない言い方で、今の自分が考えることを作品という形で約束事にできるのなら、もっと身近な人間にも優しい方法で言葉を選べるようになると思ったから。
スマホでフリック入力するときも、パソコンで文字を打つにも小指はほとんど使われない。 拳万や針千本以上の罰が、今では人差し指から課される。
これは筋を通すための表明じゃない。 今の自分に対して誠実であろうとする過程の副産物。